忍者ブログ
気になる単語をお勉強
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

日本語ロック論争
日本語ロック論争(にほんごろっくろんそう)は1970年代初めに起きた
日本語とロック音楽の関係性についての論争。別名・はっぴいえんど論争

『新宿プレイマップ』1970年10月号、『ニュー・ミュージック・マガジン』1971年5月号の
座談会「日本のロック情況はどこまで来たか」が発端

この日本語ロック論争は、60年代末頃からニューロックという言葉が流行しており、
つまりニューロック=新しいロック、これからのロックは、日本語で歌うべきか、
英語で歌うべきかが議論
された。ニューロック誕生当初、日本語はロックのメロディーに
乗らないというのが定説であり、日本のニューロックは英語で歌うミュージシャン
(主に内田裕也、フラワー・トラベリン・バンド、ザ・モップスなど)が主流で、
英語で歌い海外で成功すというのが彼らの共通の目標であった。
そこにはっぴいえんどや、ボブ・ディランに影響を受けフォークからロックに転身した
岡林信康ら、日本語でロックを歌うアーティストの登場により起こった議論である。

ただし議論とは名ばかりで、実際には英語で歌っていたミュージシャンが一方的に
日本語で歌っているミュージシャンに難癖をつけた
、という方がより実情に近い。
論争のきっかけは『ニュー・ミュージック・マガジン』で発表された日本のロック賞の
上位にランクされたのが、主に日本語で歌っているアーティスト、特にURCレコード
(主にフォーク系のアーティストの作品をリリースしていたレーベル)のアーティストが
上位を占め、英語で歌っているアーティストが選ばれなかった事に始まったといえる。

この対談で内田裕也は「(はっぴいえんどの)「春よ来い」にしたって、よほど注意して
聞かないと言ってることがわからない。歌詞とメロディとリズムのバランス悪く、
日本語とロックの結びつきに成功したとは思わない」と音楽的な指摘をしている一方で
「去年の『ニューミュージック・マガジン』の日本のロックの1位が岡林信康で、
今年ははっぴいえんど、そんなにURCのレコードがいいのか?僕達だって
一生懸命やってるんだと言いたくなる」
と本音を吐いている。また対する松本隆は、
ロックに日本語の歌詞を乗せる事に未だ成功していない事をあっさりと認めたうえ、
「フラワー・トラベリン・バンドやザ・モップスについてどう思うのか?」との内田からの
挑発に近い問いに「僕達は人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわない
と思うし、音楽についても趣味の問題だ」
と全く意に介さずと言った発言をしており、
両者間には明確な温度差があった。また内田以外の参加者ははっぴいえんどを絶賛し、
興奮する内田をなだめる事に終始しており事実上、議論は成立していない様に見える。

前述の通りこの論争は英語で歌っている側からの一方的なものだったこともあり、
はっぴいえんどがアルバム「風街ろまん」で、ロックのメロディーに日本語の歌詞を
乗せるという事に一応の成功を納めると、あっさり収束に向った。
さらにキャロル(1972)やサザンオールスターズ(1978)が登場し商業的な成功を
収めると、それまでの論争は影を潜めはじめ、ロックが様々なジャンルに多様化
してしまった70年代中期以降では日本語ロック論争は無意味とされてきた。

はっぴいえんどが一般的にはアングラな存在のままで解散した一方、この論争の
火付け役であった内田裕也自身や、「日本語でロックを歌うのはバカ」と言い放っていた
鈴木ヒロミツがボーカルをつとめるザ・モップスらが日本語のヒット曲を生み出すという
一種の転向ともいえる事態
が起り、何とも皮肉な形でこの論争に決着がつく事となった。

この論争の中で「日本のこれからのロックは日本語で歌うべき」とする人々が、
はっぴいえんどを日本語によるニューロックの創始として支持し、これが後の再評価の
なかで「すべての日本語のロックの創始ははっぴいえんど」という見解が広まった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



70年代の音楽は結構好きです。こういう論争をリアルタイムで見てみたかったですね。

PR
プロフィール

HN:
管理人
性別:
非公開

最新CM

[10/01 管理人]
[10/01 管理人]
[10/01 管理人]
[10/01 管理人]
[10/01 管理人]
ブログ内検索